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■禅源寺
歴史の重みと深さを感じる曹洞宗法興山禅源寺
曹洞宗法興山禅源寺、このお寺は松前町法源寺の末寺で、安政5年4月(1858年)、法源寺二十二世太堂和尚によって開基された。現在地には笠井泰岳(中山大安和尚の養子)のときに明治40年起工42年に落成、今日に至っている。この建築には、五百羅漢を発願した種田富太郎氏の父、銀作氏が大きく貢献している。
【古平町史より】 |
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■五百羅漢
〜嵐の海から奇跡の生還 五百羅漢像に感謝と祈りをこめてから
種田富太郎氏、明治4年8月20日上磯郡上磯町に銀作氏の長男として生れる。父銀作氏に随って漁業に従事、のち家業も継承し古平町大字入船町に居を構え、全盛を極める。
それは大正8年9月24日のことだった。樺太さけます漁場を切りあげて自己所有船国豊丸(トン数不明木造船であった由)に妻トヨ氏、長男豊太氏、漁夫20人を乗せ、大漁の喜びに胸をはずませながら帰途についた。
利尻沖では空は一瞬にして雲が低くたち込め、波は怒り狂ったように荒れだした。予期せぬ大時化だった。舟はあったいう間に傾き水船と化してしまった。乗組員全員が協力して排水に努めながら、不安のうちに漂流すること二昼夜。ちょうど付近を航行中のソ連船に船もろとも救助された。そのまま大泊港まで曳行されて、やっとの思いで上陸することができた。種田氏は遭難の際、普段から信仰の観音菩薩に必死に祈り続けていた。そのときの感謝を表すため、五百羅漢像の寄進を発願した。(大正8年12月20日発願となっている。)
仏像では痛みやすいし、日本画では保存に困難である。考えた末、洋画にすることにしたのであった。 |
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〜製作苦心談 家に出入りする者すべてがモデルとなった〜
この羅漢図を描いた人は、当時札幌一中で図画の教師であった林竹次郎氏(明治4年4月15日宮城県東吉郡に生れる。昭和16年3月15日に71歳で鹿児島県にて没)
林氏は明治25年東京美術学校を卒業し、橋本雅邦に日本画を学び、明治34年に渡道。最初は札幌師範学校に奉職、のちに札幌第一中学校に転じた。一中には32年間勤務している。この羅漢図を描いていた大正15年に藤高等女学校に転じる。
画歴としては明治40年第一回文展「朝の祈り」が入選、本道に残る最後の代表作は豊平館にある「札幌農学校理化実験展覧の図」である。
林氏は18歳で仙台で洗礼を受けた熱心なキリスト教徒で、その氏と羅漢図の出会いはまったく奇なる因縁といってよいだろう。
羅漢図の依頼を受けたのは大正9年。以来昭和14年まで20年を要している。
この製作は林氏一家にとって、全く大変なことであった。次男林文雄氏(北大医学部卒医学博士、昭和22年逝去)の筆による「五百羅漢縁記)に次のように書かれている。
『大正9年冬休みに写真技手として私を伴い京阪地方に出かけた(中略)人類学の洋書を古本屋で漁って黒人の材料を集めた。小生はもちろん、家に居た学生、出入りする訪問者は皆五百羅漢の材料になった。途中幾度か材料に困った。新聞の写真でも何でも材料になった。
「神は何億という人を皆違えて作り給うのに、おれは百や二百で行きづまるのか」とキリスト教の父が慨嘆したことも幾度か解らぬ。併し一人一人の分はどうにか仕上げた。凡そ家に関係のあるものは五百羅漢の一人となるのを光栄として、未だ筆にのらざるものは一大事とばかりモデルを志願するに至ったのである。困難だったのは群像であって、十大弟子十六羅漢とか、いろいろな大きな像の額がかかっている筈だが、このモデルは炎天下にタオルを肩に虚空をにらんで数時間立ちつくすのであるから孝行息子以外やるものがない』(以下略)
したがってモデルは時の蔵相高橋是清や内閣総理大臣陸軍大将田中義一、木内円吉伯爵、服部宇野吉文学博士、北海道庁勅任技師林常夫林務課長等がある。羅漢図の大額の構図は、当時の東京美術学校、柾木校長の助言があったと伝えている。
発願者種田富太郎氏が出した費用は、当時で五万円といわれており、後年、羅漢堂を建てる計画であったとも伝わっているが、日支事変、大東亜戦争のためにその目的を達しなかった。
壁間に飾られているこの羅漢図は、5人づつの大額5枚、一人額が475枚で、計480枚。この額縁は大額が25円、一人額が10円といわれている。
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